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「いらっしゃいませ」
その店に入ったのは、ただの気まぐれだった。店はもう閉店間際だったのだろう、店内には誰もいない。その店の片隅には、大分使われていないらしいアップライトピアノが置いてあった。
僕は通されたカウンターで、この胸に蔓延るもやもやとした何かを吐き出すように溜息を吐いた。もやもやの原因はわかっている。一週間前にある音楽事務所の、ピアノの演奏者を募集をするオーディションを受けにいった時のことだ。
『前の演奏は完璧だが、心が入ってねえ。空っぽの演奏だ』
だから、美しくない。
その音楽事務所に勤める虹色の髪を持つその男は、堂々と僕の演奏を、そのオーディション会場の場で詰った。ほうと溜息を吐いていた他の審査員達も、その男の言葉に反論する術を持っていなかったようだ。
演奏に心なんて邪魔なものはいらない。
そう告げた僕に、その男は心底呆れたように肩を竦めるだけだった。
『前は人の心の美しさを知らねえだけだし』
結果、そのオーディションには受かったが、なんとも後味の悪い受かり方になった。
どんなに難しい曲でも、心も込めずに譜面通りに弾くのはつまらない演奏だと、その男は少し寂しそうに言った。
人の心の、一体どこが美しいと言うのか。僕には理解しかねる。人の心なんて、覗いた所で醜くて目も当てられないものに違いないのに。
小さな頃から、僕はずっと見てきた。見えてしまっていた。欲に塗れた人の汚い部分や、醜い人の心、どんなに見た目が綺麗な人間だって、中身を見れば同じ穴の狢だ。いや、どちらかと言えば、そういう見てくれが綺麗な人間の方が、その中身は汚かったかもしれない。
「これ、良ければどうぞ」
僕の思考を遮るように、目の前に温かそうなスープが入った皿が置かれた。「え?」と、顔をあげると、先程出迎えてくれた小柄な店員が、にっこりと笑う。
「温まりますよ」
「……僕、まだ何も頼んでいない筈だけど?」
「はい! 僕のサービスです」
くすくすと柔らかな声が耳をくすぐった。その顔に、悪意は見えない。僕の見てくれを気に入って、というわけでもなさそうだ。
ただ単に、純粋な行為からしてくれたようだった。僕は眉間に皺を寄せ、その行為の意味を慎重に測る。
「……どうして?」
「閉店間際で、鍋にちょっとだけスープが残っていたので。ただの気まぐれですよ」
店員はそう言って、
「残飯処理ってわけ?」
「ふふ、そういうことです」
なるほど、それならこれも納得できる。僕は苦笑を浮かべると、そっとスプーンを手に取った。
店員は僕がスプーンを手に取るのを見届けると、そのまままたにこりと笑って、僕に背中を向ける。
僕はカウンターの向こうで洗い物を始めた男を見やり、それかあRスープを一口掬って、口に運ぶ。
「……へえ」
僕は思わず、感嘆の声を漏らした。一口飲んだだけでわかる。随分と手間暇の掛かったスープのようだ。
キャベツや茄子やキノコが入ったスープは、程よいネオトマトの酸味と相俟って美味しい。
ふと視線を感じて顔をあげてみれば、皿洗いをしていたらしい店員と目が合った。ばっちりと目が合うと、彼は苦笑を浮かべるのが見えた。
「いかがですか?」
「凄く美味しいよ」
僕が言うと、彼は嬉しそうに顔を綻ばせた。料理が好きなのだろう、そんな風に思わせてくれるような、そんな笑みだった。
「ピアノは食材と一緒で、結構デリケートなものでね」
「へえ」
閉店した後、僕はガーゼで軽く表面についた埃を払った。小松君もガーゼを取ると、優しく拭き始めた。二人で拭けば、ピアノの拭き掃除もあっと言う間に終わる。
「よし、ここからがちょっと時間が掛かるんだ」
僕はそう言って、あらかじめ用意していた軍手を小松君に手渡す。コンパウンドと呼ばれる磨き粉を布につけて、僕らはピアノの磨き作業を開始した。
これが結構骨が折れる。小松君も慎重に磨きながら、額に滲んだ汗を拭っていた。
僕らは特に会話もしないまま、黙々とピアノを磨き続けた。それでも、やっぱり一人でやるよりはうんと早い。古いピアノではあったけれど、磨き終えれば随分と見てくれも立派になった。
「わあ、見違えますね!」
小松君が嬉しそうに、ピアノを眺めて声をあげた。僕も頷いて、小松君と目を合わせてにこりと微笑む。
「さ、もう一息だよ」
「はいっ! 頑張りましょう、ココさん!」
声をあげた小松君に頷いて、僕は再びタオルを持ってピアノに向き直る。僕らはまた黙々と作業に没頭した。固く絞ったタオルでピアノを拭いて、更にワックスでピアノに艶を出す。
言葉にすればあっという間でも、やっぱりそれでもその作業を終える頃には結構な時間も経っていたし、何より僕らもくたくたになっていた。
「うわあ、意外と大変なんですね、ピアノのお手入れって」
「はは、そうだね。結構大変だったけど、二人でやればあっという間だったろ?」
小松君が笑いながら、頷く。
くたくたになった僕らは椅子に座って、一息吐いた。ピアノを眺めた僕らは、顔を合わせて微笑む。僕らの苦労は、報われたと言っても良かった。
僕と小松君によって磨かれたピアノは、最初に僕がこの店に来た時と比べたらうんと見違えるものになった。
生まれ変わったピカピカのピアノは、店の片隅にちょっと得意げに佇んでいるように見える。
「凄い! 僕が店に入ってきた時よりも綺麗になりましたよっ!」
「調律は終えているから、これで生演奏も出来るね」
僕が言うと、小松君がじっと僕を見上げた。その目はきらきらと、期待に満ちている。僕が首を傾げると、小松君はにっこりと笑って、僕の背中を押した。
「ココさん、じゃあ、是非!」
「ふふ、いいの? 僕なんかがこのピアノに最初に触る人間で」
小松君はもう首がもげるのではないかという勢いで首を縦に振る。ぶんぶんと振られるそれと、花が咲き綻ぶような笑みを前にして、僕は視線を和らげた。
「ココさんがいいですっ! ココさん、プロなんでしょう? それなのに僕、ココさんの演奏を聴いたことがなかったから」
「まあ、僕は滅多に人の前で弾かないからね」
じゃあ、何を弾こうかな。
僕のそんな言葉に、小松君の目が輝いた。立ち上がった僕にまとわりつくように動く小松君の姿は、申し訳ないがとても二十五歳の姿には見えない。
「何かリクエスト、ある?」
「んーー、僕、クラシックにはあまり詳しくなくて……」
確かに、そんな感じだね。
僕が呟くと、小松君はむっとしたように僕を見上げる。その膨らんだ頬は、やっぱり二十五歳には見えない。
「クラシックじゃなくてもいいよ?」
「そうなんですか!?」
「うん、わりとなんでも弾くからね」
「へえ……」
磨き上げたピアノを見ながら、僕らはいつものように会話をしていく。感心したような呟いた小松君は、「んー」と悩んだ末に、一つ頷いて、手をあげた。やっぱり二十五歳には見えない。
「じゃあ! ココさんのオススメの曲で!」
「僕の? まあ、いいけど……寝ないでよ?」
「寝ませんよ! さっきからココさん、ちょっと失礼じゃないですか?!」
怒る小松君に、僕はくすくすと声を立てて笑った。小松君の膨らんだ頬を押し潰し、僕は椅子から立ち上がる。
「じゃあ、お詫びも込めて、今日は特別に君のために弾くよ」
そう言うと、小松君はきょとんとした表情に後、照れたように頬を染めて笑った。その笑顔に僕も微笑み返すと、ゆっくりとピアノの椅子を弾き出す。
あぁ、なんだか普通に弾くよりも緊張するかも。
そんなことを思う自分が少し意外であり、またほんの少しだけ、心地よい。
僕の中で何かが息づくように、音を奏で始めていた。とくとくと高鳴っていく鼓動を感じながら、僕は鍵盤に指を乗せて、その曲を弾き始めた。
なんで自分がその曲を選曲したのかはわからない。ただ、今、君に聞かせてあげたいと思ったのが、この曲だった。ただそれだけの話だ。
ゆっくりとした優しくも美しい調べは、まるで僕らの今のこの時間のように、穏やかに店の中を流れていった。
「前、最近恋人でも出来たか?」
「は?」
サニーの言葉に、僕は眉間に深い縦皺を寄せた。
今、僕はサニーが主催する美を追求する食フェアのための曲を弾き終えた所だった。ゆったりとした曲調と綺麗な旋律は、随分とサニーのお気に召したらしい。
ご機嫌に鼻歌なんかを歌い出しそうなサニーは、ふと何かに気付いたように僕を振り返って告げた。その言葉が、さっきのそれだった。
「さっきの前の演奏、今までのお堅い弾き方とは、ちょっと違うし。丸みを帯びたっつーか?」
「…………曲がそういう曲だったからだろ?」
「ちっげーし! 言ったろ、前には心が足りねえんだ!」
またその話か。とにかく美しさを追求する男は、口を酸っぱくして僕に同じ言葉を告げる。よく飽きもせずに言うものだと呆れる僕のことなど、この男は気にしてもいないのだろう。
「前に大事な奴でも出来たかと思ったが……」
大事な奴。そう言われて、ふと頭の片隅に思い浮かぶ顔。
最近、ちょっとだけピアノが弾けるようになったと、楽しそうにピアノを弾く君。それを見ているだけで、思い出すだけで、なんだか酷く温かな気持ちに胸が包まれる。
最近の僕の日課。仕事が終わって、君の店に行って、君の仕事が終わるのを待って、それから喋って、ちょっとピアノを教えてみたり、料理を教えて貰ったりなんかして、そんな風に過ごすのが日課だった。
小松君といるのはとても楽しい。苦しくて仕方なかったピアノが、こんなに楽しいものだなんて僕は今まで知らなかった。
「……大事にしろよ」
サニーの言葉に、僕は顔を上げる。うっきり自身の世界に入り込んでしまっていたようだ。
僕の問い掛けるような視線に、サニーは笑みを浮かべてその前髪を掻き上げた。
「前をそんな風に変えた奴、ちょっと見てみてーし」
「変わった? 僕が?」
サニーの言葉に、僕は眉間に皺を寄せる。あまり自覚はなかったけれど、他人からそう指摘されるとちょっと気になってくるというものだ。
「自覚ねーのかよ、呆れた毒男だな」
「煩いよ」
「ま、良いんじゃね? 悪い変化じゃねーしな。ただ、そいつの手だけは、絶対に離すなよ」
びしっと指差され、僕は肩を竦めてサニーの言葉から逃げた。
離す。
それは小松君の手を離すということだろうか。サニーと別れた後、僕はそんなことをつらつらと考えながら、足は勝手に通い慣れた小松君の店へと向かう。早く君の温かいスープが飲みたかった。
仮にもし、小松君から別れを切り出されたら。
僕は首を振る。小松君がいなくなった所で、僕は僕で、今まで通りの生活に戻ればいいだけの話だ。
だけど、今までの生活とはどんな風だったろう?
思い出そうとしても、不思議なことに思い出すことが出来なかった。小松君のいなくなった後の生活。僕はそれを考えて、ぶるりと体を震わせた。そんなこと、考えたくもない。
「……ふぁ、ココさん!」
「やあ、こんばんは、小松く……?」
僕はいつも通りに店の中に入る。そこでふと聞こえてきた小松君の声が微かに、震えていたことに気付いた。視線を店の中に這わせると、僕は目を見開いた。
そこには先客がいた。ピアノの上に、小松君の小さな体を押し付けている男。
「……トリコ、何しているんだ」
「チッ、タイミングわりぃんだよ、てめえ」
トリコが振り返る。ピアノに押し付けられていた小松君を見て、僕は目を見開いた。
いつも着ているトレードマークのようなコックコートは肌蹴て、その肌が露わになっている。小松君は苦しそうに息を吐き出し、その大きな瞳からは涙が溢れていた。
僕の視線の先で、トリコが舌舐めずりするのが見える。その光景に、僕の頭にはカッと血が上っていた。
「くそっ!」
拳を叩きつけると、不協和音が部屋に響いた。
外からは、叩きつけるように降る雨の音が聞こえてくる。僕はぐしゃぐしゃと髪を掻き乱すと、鍵盤に肘を乗せて、顔を覆う。暗い部屋に、閃光が走った。どうやら、雷まで鳴り始めたようだった。
最近、何をしても上手くいかない。何かをする度に、あの時の光景が目に焼き付いて離れない。
僕は胸の中に燻る激情を吐き出すように、息を細く長く吐き出した。それでも、胸の中からそれは出ていかない。いっそ忘れてしまえたら、どんなにいいか。
「……愛の夢、ね」
浮かれていた自分が馬鹿みたいだ。僕はくつくつと笑みを浮かべる。
小松君といる間は、僕に取って本当に夢のような、そんな時間だった。あの曲のように、優しく、時に激しく、僕の中に芽生えたそれは、今、僕を苦しめるものでしかない。
泡沫の夢だった。そう言われてしまえば、そうなのだろう。愛なんて所詮、そんなものだ。
「……馬鹿は僕の方、か」
雷が近い。窓の外に、また閃光が走った。
君が好きだといった曲も、好きだといった景色も、僕はちゃんと覚えている。それを思い出すだけで今は、こんなにも胸が苦しい。
小松君は今頃、トリコと上手くいっているのだろうか。あの男は確かに太陽みたいな男だから、小松君とはきっと波長が合う。だから、きっと、今頃は……。
ダン、とまたピアノが不協和音を立てた。僕は舌打ちをして、ピアノの鍵盤に蓋をする。
まるで気持ちにも、蓋をするように。
いや、実際僕は、小松君に出会うまでそうだった。誰にも心を向けず、誰も寄せ付けず、ただ淡々と与えられたものをこなしていくだけの日常だった筈だ。
僕はこれからも、そうしていけばいい。
痛みを伴う胸の内を、甘く辛い、毒のような苦いそれを、誰にも気付かれないように噛み締めて。
今までのことは、甘い甘い、ただの夢だったのだ。何も残らない、頭の片隅に残る切ない夢。
「……小松君」
あの曲のように、優しく甘い旋律の中に滲むどこか切ない色を、僕は今、初めてここで理解した気がした。
叶うのであれば、また君とそんな夢物語を、見たかった。
タイトルはクラシックの曲から。
ココさんが弾いたのは「愛の夢 第三番」
多分誰もが一度は聞いたことのある曲なんではないでしょうか。
そんなピアニストなココさんと、レストランを営む小松君のお話。
揉めて揉めてくっついて離れてまたくっついて……な、そんなお話です。
2113/5/3 SCC にて 頒 布 し ま せ ん 。
当日お求めの方はココマをご持参の上、当スペースまでお越しください。代金だけ頂戴してとんずらします←
その店に入ったのは、ただの気まぐれだった。店はもう閉店間際だったのだろう、店内には誰もいない。その店の片隅には、大分使われていないらしいアップライトピアノが置いてあった。
僕は通されたカウンターで、この胸に蔓延るもやもやとした何かを吐き出すように溜息を吐いた。もやもやの原因はわかっている。一週間前にある音楽事務所の、ピアノの演奏者を募集をするオーディションを受けにいった時のことだ。
『前の演奏は完璧だが、心が入ってねえ。空っぽの演奏だ』
だから、美しくない。
その音楽事務所に勤める虹色の髪を持つその男は、堂々と僕の演奏を、そのオーディション会場の場で詰った。ほうと溜息を吐いていた他の審査員達も、その男の言葉に反論する術を持っていなかったようだ。
演奏に心なんて邪魔なものはいらない。
そう告げた僕に、その男は心底呆れたように肩を竦めるだけだった。
『前は人の心の美しさを知らねえだけだし』
結果、そのオーディションには受かったが、なんとも後味の悪い受かり方になった。
どんなに難しい曲でも、心も込めずに譜面通りに弾くのはつまらない演奏だと、その男は少し寂しそうに言った。
人の心の、一体どこが美しいと言うのか。僕には理解しかねる。人の心なんて、覗いた所で醜くて目も当てられないものに違いないのに。
小さな頃から、僕はずっと見てきた。見えてしまっていた。欲に塗れた人の汚い部分や、醜い人の心、どんなに見た目が綺麗な人間だって、中身を見れば同じ穴の狢だ。いや、どちらかと言えば、そういう見てくれが綺麗な人間の方が、その中身は汚かったかもしれない。
「これ、良ければどうぞ」
僕の思考を遮るように、目の前に温かそうなスープが入った皿が置かれた。「え?」と、顔をあげると、先程出迎えてくれた小柄な店員が、にっこりと笑う。
「温まりますよ」
「……僕、まだ何も頼んでいない筈だけど?」
「はい! 僕のサービスです」
くすくすと柔らかな声が耳をくすぐった。その顔に、悪意は見えない。僕の見てくれを気に入って、というわけでもなさそうだ。
ただ単に、純粋な行為からしてくれたようだった。僕は眉間に皺を寄せ、その行為の意味を慎重に測る。
「……どうして?」
「閉店間際で、鍋にちょっとだけスープが残っていたので。ただの気まぐれですよ」
店員はそう言って、
「残飯処理ってわけ?」
「ふふ、そういうことです」
なるほど、それならこれも納得できる。僕は苦笑を浮かべると、そっとスプーンを手に取った。
店員は僕がスプーンを手に取るのを見届けると、そのまままたにこりと笑って、僕に背中を向ける。
僕はカウンターの向こうで洗い物を始めた男を見やり、それかあRスープを一口掬って、口に運ぶ。
「……へえ」
僕は思わず、感嘆の声を漏らした。一口飲んだだけでわかる。随分と手間暇の掛かったスープのようだ。
キャベツや茄子やキノコが入ったスープは、程よいネオトマトの酸味と相俟って美味しい。
ふと視線を感じて顔をあげてみれば、皿洗いをしていたらしい店員と目が合った。ばっちりと目が合うと、彼は苦笑を浮かべるのが見えた。
「いかがですか?」
「凄く美味しいよ」
僕が言うと、彼は嬉しそうに顔を綻ばせた。料理が好きなのだろう、そんな風に思わせてくれるような、そんな笑みだった。
「ピアノは食材と一緒で、結構デリケートなものでね」
「へえ」
閉店した後、僕はガーゼで軽く表面についた埃を払った。小松君もガーゼを取ると、優しく拭き始めた。二人で拭けば、ピアノの拭き掃除もあっと言う間に終わる。
「よし、ここからがちょっと時間が掛かるんだ」
僕はそう言って、あらかじめ用意していた軍手を小松君に手渡す。コンパウンドと呼ばれる磨き粉を布につけて、僕らはピアノの磨き作業を開始した。
これが結構骨が折れる。小松君も慎重に磨きながら、額に滲んだ汗を拭っていた。
僕らは特に会話もしないまま、黙々とピアノを磨き続けた。それでも、やっぱり一人でやるよりはうんと早い。古いピアノではあったけれど、磨き終えれば随分と見てくれも立派になった。
「わあ、見違えますね!」
小松君が嬉しそうに、ピアノを眺めて声をあげた。僕も頷いて、小松君と目を合わせてにこりと微笑む。
「さ、もう一息だよ」
「はいっ! 頑張りましょう、ココさん!」
声をあげた小松君に頷いて、僕は再びタオルを持ってピアノに向き直る。僕らはまた黙々と作業に没頭した。固く絞ったタオルでピアノを拭いて、更にワックスでピアノに艶を出す。
言葉にすればあっという間でも、やっぱりそれでもその作業を終える頃には結構な時間も経っていたし、何より僕らもくたくたになっていた。
「うわあ、意外と大変なんですね、ピアノのお手入れって」
「はは、そうだね。結構大変だったけど、二人でやればあっという間だったろ?」
小松君が笑いながら、頷く。
くたくたになった僕らは椅子に座って、一息吐いた。ピアノを眺めた僕らは、顔を合わせて微笑む。僕らの苦労は、報われたと言っても良かった。
僕と小松君によって磨かれたピアノは、最初に僕がこの店に来た時と比べたらうんと見違えるものになった。
生まれ変わったピカピカのピアノは、店の片隅にちょっと得意げに佇んでいるように見える。
「凄い! 僕が店に入ってきた時よりも綺麗になりましたよっ!」
「調律は終えているから、これで生演奏も出来るね」
僕が言うと、小松君がじっと僕を見上げた。その目はきらきらと、期待に満ちている。僕が首を傾げると、小松君はにっこりと笑って、僕の背中を押した。
「ココさん、じゃあ、是非!」
「ふふ、いいの? 僕なんかがこのピアノに最初に触る人間で」
小松君はもう首がもげるのではないかという勢いで首を縦に振る。ぶんぶんと振られるそれと、花が咲き綻ぶような笑みを前にして、僕は視線を和らげた。
「ココさんがいいですっ! ココさん、プロなんでしょう? それなのに僕、ココさんの演奏を聴いたことがなかったから」
「まあ、僕は滅多に人の前で弾かないからね」
じゃあ、何を弾こうかな。
僕のそんな言葉に、小松君の目が輝いた。立ち上がった僕にまとわりつくように動く小松君の姿は、申し訳ないがとても二十五歳の姿には見えない。
「何かリクエスト、ある?」
「んーー、僕、クラシックにはあまり詳しくなくて……」
確かに、そんな感じだね。
僕が呟くと、小松君はむっとしたように僕を見上げる。その膨らんだ頬は、やっぱり二十五歳には見えない。
「クラシックじゃなくてもいいよ?」
「そうなんですか!?」
「うん、わりとなんでも弾くからね」
「へえ……」
磨き上げたピアノを見ながら、僕らはいつものように会話をしていく。感心したような呟いた小松君は、「んー」と悩んだ末に、一つ頷いて、手をあげた。やっぱり二十五歳には見えない。
「じゃあ! ココさんのオススメの曲で!」
「僕の? まあ、いいけど……寝ないでよ?」
「寝ませんよ! さっきからココさん、ちょっと失礼じゃないですか?!」
怒る小松君に、僕はくすくすと声を立てて笑った。小松君の膨らんだ頬を押し潰し、僕は椅子から立ち上がる。
「じゃあ、お詫びも込めて、今日は特別に君のために弾くよ」
そう言うと、小松君はきょとんとした表情に後、照れたように頬を染めて笑った。その笑顔に僕も微笑み返すと、ゆっくりとピアノの椅子を弾き出す。
あぁ、なんだか普通に弾くよりも緊張するかも。
そんなことを思う自分が少し意外であり、またほんの少しだけ、心地よい。
僕の中で何かが息づくように、音を奏で始めていた。とくとくと高鳴っていく鼓動を感じながら、僕は鍵盤に指を乗せて、その曲を弾き始めた。
なんで自分がその曲を選曲したのかはわからない。ただ、今、君に聞かせてあげたいと思ったのが、この曲だった。ただそれだけの話だ。
ゆっくりとした優しくも美しい調べは、まるで僕らの今のこの時間のように、穏やかに店の中を流れていった。
「前、最近恋人でも出来たか?」
「は?」
サニーの言葉に、僕は眉間に深い縦皺を寄せた。
今、僕はサニーが主催する美を追求する食フェアのための曲を弾き終えた所だった。ゆったりとした曲調と綺麗な旋律は、随分とサニーのお気に召したらしい。
ご機嫌に鼻歌なんかを歌い出しそうなサニーは、ふと何かに気付いたように僕を振り返って告げた。その言葉が、さっきのそれだった。
「さっきの前の演奏、今までのお堅い弾き方とは、ちょっと違うし。丸みを帯びたっつーか?」
「…………曲がそういう曲だったからだろ?」
「ちっげーし! 言ったろ、前には心が足りねえんだ!」
またその話か。とにかく美しさを追求する男は、口を酸っぱくして僕に同じ言葉を告げる。よく飽きもせずに言うものだと呆れる僕のことなど、この男は気にしてもいないのだろう。
「前に大事な奴でも出来たかと思ったが……」
大事な奴。そう言われて、ふと頭の片隅に思い浮かぶ顔。
最近、ちょっとだけピアノが弾けるようになったと、楽しそうにピアノを弾く君。それを見ているだけで、思い出すだけで、なんだか酷く温かな気持ちに胸が包まれる。
最近の僕の日課。仕事が終わって、君の店に行って、君の仕事が終わるのを待って、それから喋って、ちょっとピアノを教えてみたり、料理を教えて貰ったりなんかして、そんな風に過ごすのが日課だった。
小松君といるのはとても楽しい。苦しくて仕方なかったピアノが、こんなに楽しいものだなんて僕は今まで知らなかった。
「……大事にしろよ」
サニーの言葉に、僕は顔を上げる。うっきり自身の世界に入り込んでしまっていたようだ。
僕の問い掛けるような視線に、サニーは笑みを浮かべてその前髪を掻き上げた。
「前をそんな風に変えた奴、ちょっと見てみてーし」
「変わった? 僕が?」
サニーの言葉に、僕は眉間に皺を寄せる。あまり自覚はなかったけれど、他人からそう指摘されるとちょっと気になってくるというものだ。
「自覚ねーのかよ、呆れた毒男だな」
「煩いよ」
「ま、良いんじゃね? 悪い変化じゃねーしな。ただ、そいつの手だけは、絶対に離すなよ」
びしっと指差され、僕は肩を竦めてサニーの言葉から逃げた。
離す。
それは小松君の手を離すということだろうか。サニーと別れた後、僕はそんなことをつらつらと考えながら、足は勝手に通い慣れた小松君の店へと向かう。早く君の温かいスープが飲みたかった。
仮にもし、小松君から別れを切り出されたら。
僕は首を振る。小松君がいなくなった所で、僕は僕で、今まで通りの生活に戻ればいいだけの話だ。
だけど、今までの生活とはどんな風だったろう?
思い出そうとしても、不思議なことに思い出すことが出来なかった。小松君のいなくなった後の生活。僕はそれを考えて、ぶるりと体を震わせた。そんなこと、考えたくもない。
「……ふぁ、ココさん!」
「やあ、こんばんは、小松く……?」
僕はいつも通りに店の中に入る。そこでふと聞こえてきた小松君の声が微かに、震えていたことに気付いた。視線を店の中に這わせると、僕は目を見開いた。
そこには先客がいた。ピアノの上に、小松君の小さな体を押し付けている男。
「……トリコ、何しているんだ」
「チッ、タイミングわりぃんだよ、てめえ」
トリコが振り返る。ピアノに押し付けられていた小松君を見て、僕は目を見開いた。
いつも着ているトレードマークのようなコックコートは肌蹴て、その肌が露わになっている。小松君は苦しそうに息を吐き出し、その大きな瞳からは涙が溢れていた。
僕の視線の先で、トリコが舌舐めずりするのが見える。その光景に、僕の頭にはカッと血が上っていた。
「くそっ!」
拳を叩きつけると、不協和音が部屋に響いた。
外からは、叩きつけるように降る雨の音が聞こえてくる。僕はぐしゃぐしゃと髪を掻き乱すと、鍵盤に肘を乗せて、顔を覆う。暗い部屋に、閃光が走った。どうやら、雷まで鳴り始めたようだった。
最近、何をしても上手くいかない。何かをする度に、あの時の光景が目に焼き付いて離れない。
僕は胸の中に燻る激情を吐き出すように、息を細く長く吐き出した。それでも、胸の中からそれは出ていかない。いっそ忘れてしまえたら、どんなにいいか。
「……愛の夢、ね」
浮かれていた自分が馬鹿みたいだ。僕はくつくつと笑みを浮かべる。
小松君といる間は、僕に取って本当に夢のような、そんな時間だった。あの曲のように、優しく、時に激しく、僕の中に芽生えたそれは、今、僕を苦しめるものでしかない。
泡沫の夢だった。そう言われてしまえば、そうなのだろう。愛なんて所詮、そんなものだ。
「……馬鹿は僕の方、か」
雷が近い。窓の外に、また閃光が走った。
君が好きだといった曲も、好きだといった景色も、僕はちゃんと覚えている。それを思い出すだけで今は、こんなにも胸が苦しい。
小松君は今頃、トリコと上手くいっているのだろうか。あの男は確かに太陽みたいな男だから、小松君とはきっと波長が合う。だから、きっと、今頃は……。
ダン、とまたピアノが不協和音を立てた。僕は舌打ちをして、ピアノの鍵盤に蓋をする。
まるで気持ちにも、蓋をするように。
いや、実際僕は、小松君に出会うまでそうだった。誰にも心を向けず、誰も寄せ付けず、ただ淡々と与えられたものをこなしていくだけの日常だった筈だ。
僕はこれからも、そうしていけばいい。
痛みを伴う胸の内を、甘く辛い、毒のような苦いそれを、誰にも気付かれないように噛み締めて。
今までのことは、甘い甘い、ただの夢だったのだ。何も残らない、頭の片隅に残る切ない夢。
「……小松君」
あの曲のように、優しく甘い旋律の中に滲むどこか切ない色を、僕は今、初めてここで理解した気がした。
叶うのであれば、また君とそんな夢物語を、見たかった。
タイトルはクラシックの曲から。
ココさんが弾いたのは「愛の夢 第三番」
多分誰もが一度は聞いたことのある曲なんではないでしょうか。
そんなピアニストなココさんと、レストランを営む小松君のお話。
揉めて揉めてくっついて離れてまたくっついて……な、そんなお話です。
2113/5/3 SCC にて 頒 布 し ま せ ん 。
当日お求めの方はココマをご持参の上、当スペースまでお越しください。代金だけ頂戴してとんずらします←
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